シャチは人間を襲うのか?野生で襲わない理由と水族館事故の真相
野生環境における温厚さとは対照的に、水族館の歴史においては、飼育員や調教師がシャチに襲撃されて命を落とす悲惨なインシデントが現実として刻まれています。その中心にいたのが、世界で最も有名な巨大なオスのシャチ「ティリクム(Tilikum)」です。
体長6.9メートル、体重5.4トンを誇ったティリクムは、生涯で3人の人間の死に関与しました。1983年にアイスランド沖で幼少期に捕獲されたティリクムは、カナダの海洋公園「シーランド・オブ・ザ・パシフィック」に送られ、1991年にプールへ転落した女性飼育員ケルティ・バーン氏を他のシャチと共に水中に引きずり込み溺死させました。その後、米国の巨大テーマパーク「シーワールド・オーランド」に移籍しましたが、1999年には夜間に閉館後のプールに不法侵入した男性がティリクムの背中の上で低体温症および外傷により水死体で発見されます。
そして世界に最も甚大な衝撃を与えたのが、2010年2月24日に発生したベテラン調教師ドーン・ブランショ氏の死亡事故です。ショーの終了後、プールサイドの浅瀬でリラクゼーションの指示を出していたブランショ氏のポニーテールをティリクムが突如として咥え込み、水深10メートル以上のメインプールへ一気に引きずり込みました。同僚たちがネットを投入し救出を試みたものの、ティリクムは彼女を激しく振り回し、20分以上にわたって遺体を離しませんでした。検死報告書には、脊椎断裂、多発骨折、頭皮の剥離など、凄まじい衝撃による即死状態であったことが生々しく記録されています。
この事件は後に世界的ドキュメンタリー映画『ブラックフィッシュ(Blackfish)』として映像化され、世界的な議論を巻き起こしました。調査報道および元調教師たちの証言で明らかになったのは、ティリクムが生まれつきの異常な殺人狂だったのではなく、人為的な監禁飼育が引き起こした「精神の破綻(カプティブ・サイコーシス)」でした。
1日に150キロ以上を泳ぎ、複雑な音響コミュニケーションと家族の絆で生きる社会的な大型動物を、広さわずか数十メートルの無機質なコンクリートプールに閉じ込め、他のシャチからのいじめや餌による服従訓練を何十年も強いた結果、慢性的な感覚遮断とフラストレーションが限界に達し、突然の破滅的な攻撃行動へと転じたのです。