上杉家は滅亡したのか?度重なる断絶危機を乗り越えた子孫と歴史の真相
最初の大きな激震は、1578年に訪れた上杉謙信の後継者争いである「御館の乱」でした。謙信が生前に明確な後継者を指名せず急死したため、養子である上杉景勝と上杉景虎(北条氏康の実子)の間で家中を二分する流血の抗争が勃発。結果として景勝が勝利を収めたものの、この内乱による軍事力・経済力の疲弊は甚大で、織田信長軍の北陸侵攻を許す決定的な引き金となりました。
豊臣政権下で五大老のひとりに数えられ、越後から会津120万石へと加増移封された景勝でしたが、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康と対立。徳川方に敗北した結果、領地は出羽米沢30万石へと激減(会津減封)されることになります。
領地は4分の1に削られたにもかかわらず、景勝と重臣・直江兼続は「家臣を一人も解雇しない」という決断を下しました。約6,000人とも言われる家臣団をそのまま抱え込んだため、米沢藩の財政は設立当初から破綻寸前の重圧を背負うことになったのです。
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