備中高松城跡の水攻め真相と見どころ!清水宗治の決断と史跡巡りガイド
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天正10年(1582年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は中国平定の総仕上げとして毛利方の東の最前線であった備中国へ侵攻しました。その拠点として立ち塞がったのが、毛利方猛将・清水宗治が守る備中高松城です。
備中高松城の戦いの経緯を振り返ると、当初秀吉は力攻めを試みたものの、城の周囲に広がる深い沼地(深田)に足を取られ、鉄砲隊の反撃を受けて甚大な損害を出しました。力攻めでは攻略不能と判断した秀吉軍の軍師・黒田官兵衛(孝高)が進言したとされるのが、前代未聞の「水攻め」でした。
なぜ平城である高松城が水没したのか――その理由は、城が位置する盆地状の低湿地という地形特性にあります。高松城は足守川よりも標高が低く、雨が降れば自然と水が溜まりやすい低位部に築かれていました。秀吉は城の南西側を流れる足守川の流路を堰き止め、高さ約7メートル、底部幅約21メートル、総延長約3キロメートルにも及ぶ巨大な堤防を短期間で築き上げました。
折しも季節は梅雨。降り続く長雨と足守川の濁流は行き場を失い、高松城の周囲へと逆流しました。城は瞬く間に孤島と化し、水深は本丸近くで約3メートルに達したと記録されています。兵糧庫は浸水し、泥水に囲まれた約5,000人の将兵は飢えと疫病の危機に直面することになりました。
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