太平洋戦争下の日本軍の食事事情|銀シャリから飢餓の戦場まで

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太平洋戦争中盤以降、日本軍は各地で悲惨な飢餓に見舞われました。その象徴となったのが、昭和17(1942)年8月から展開されたソロモン諸島の戦い、すなわちガダルカナル島での飢餓の原因です。米軍に飛行場を奪還された日本軍は、強力な航空優勢と制海権に阻まれ、大型輸送船による部隊と物資の揚陸が完全に不可能となりました。「鼠輸送」と呼ばれた駆逐艦による夜間ドラム缶投棄も失敗が続き、補給が途絶えた前線では、戦死者約2万人超のうち半数以上が直接または間接的な餓死・戦病死でした。兵士たちは自嘲を込めて同島を「餓島(がとう)」と呼びました。

さらに悲惨を極めたのが、昭和19(1944)年のビルマ戦線におけるインパール作戦での補給線崩壊です。司令官の牟田口廉也中将が主導したこの作戦は、「現地調達」と「牛に物資を運ばせ、最後にはその牛を食べる」といういわゆる「ジンギスカン作戦」を前提とした無謀極まりないものでした。雨季のジャングル、険しい山岳地帯において牛は次々と谷底へ滑落し、食料の補給路は開戦直後に断絶しました。

南方戦線で兵士が栄養失調に陥った理由は、単にカロリーが足りなかっただけではありません。タンパク質や塩分の欠乏、さらにビタミン欠乏からくる免疫力低下がマラリアやアメーバ赤痢を爆発的に流行させました。ガダルカナルやニューギニア、ビルマでは、兵士の間で以下のような「生命の限界」を示す悲痛な標語が囁かれていたと、数多くの戦記や元兵士の手記に記録されています。

「立つことのできる者は余命三十日、座ることのできる者は余命三週間、寝たきり起き上がれない者は余命一週間、小便を垂れ流す者は余命三日、ものを言わなくなった者は余命一日」

高橋 健太

高橋 健太

ライフスタイル編集者

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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