徳姫のその後と十二ヶ条の訴状の真相|信康自刃を招いた悲運の生涯

徳姫のその後と十二ヶ条の訴状の真相|信康自刃を招いた悲運の生涯を徹底追究! 知っておきたい 重要ポイントを凝縮して配信します。

信康の非業の死を受けて、岡崎における徳姫の立場は消滅しました。天正8年(1580年)、徳姫は2人の娘を家康のもとに残し、生まれ故郷である安土へと帰還します。このとき彼女はわずか21歳。父・信長は自刃を招いた娘を責めることなく、安土城の一角に手厚く迎え入れたとされます。

しかし平穏は長く続きませんでした。帰還からわずか2年後の天正10年(1582年)、本能寺の変によって父・信長と長兄・信忠が急死。織田家の庇護を失った徳姫は、次兄・織田信雄の配下に入り、尾張国内に所領(知多郡大野など)を与えられて生活を送りました。小田原征伐後に信雄が改易されると京都へ移住し、出家して「見光院」と号します。

その後、家康とも良好な関係を保っていました。家康はかつて自らの政治判断で夫を奪った過去への配慮からか、京都見光院に合力米を支給し続け、関ヶ原の戦い以降も手厚い支援を行っています。元和9年(1623年)には尾張藩祖となった徳川義直から給米を与えられるなど、織田と徳川双方から手厚く敬われました。寛永13年(1636年)、徳姫は京都にて78歳という長寿で生涯を閉じました。死因は老衰と伝えられており、墓所は豊臣秀吉が信長を弔うために建立した京都市上京区の大徳寺総見院に現存しています。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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