なぜ尊王攘夷は倒幕へと暴走したのか?水戸学から明治維新への全貌
日本国内を二分した幕末の開国論と攘夷派の対立を決定的なものにしたのが、1858年の日米修好通商条約の締結でした。大老に就任した井伊直弼は、列強の武力侵攻を避けるために一刻を争うとして、孝明天皇の許可(勅許)を得ないまま独断で条約に調印します。
この独断専行は、京都の朝廷を激怒させただけでなく、日本中の尊王攘夷派の逆鱗に触れました。彼らにとって、神聖なる天皇の意向を無視して異国に屈服した幕府の行為は到底許されるものではなかったのです。危機感を強めた井伊直弼は、反抗する大名や公家、志士たちを次々と処刑・投獄する安政の大獄と呼ばれる熾烈な大弾圧に踏み切りました。
この強権政治が引き金となって起きたのが、1860年の桜田門外の変の背景です。白昼堂々、雪の江戸城桜田門外で水戸藩・薩摩藩の脱藩浪士たちが井伊直弼を暗殺。幕府の最高権力者が路上で討ち取られたという衝撃の事実は、「幕府に天下を統治する力はもはやない」という事実を白日の下に晒しました。これにより、政治の主導権を握るためのテロリズムが正当化され、尊王攘夷の波は一気に血なまぐさい過激活動へと突入しました。
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