徳姫のその後と十二ヶ条の訴状の真相|信康自刃を招いた悲運の生涯

徳姫のその後と十二ヶ条の訴状の真相|信康自刃を招いた悲運の生涯の全体像を詳しく解説してご紹介します。

通説では、訴状を読んだ信長が激怒し、使者として訪れた酒井忠次に対し「信康に切腹を命ぜよ」と言い渡したとされてきました。しかし、松平信康切腹の真相をめぐる現代の研究では、従来の図式が大きく覆りつつあります。

当時の一次史料を精査すると、信長は「家康の存分に計らうべし(家康の判断に任せる)」と回答した旨の記録が残されています。すなわち、信康の自刃と築山殿の処刑は、織田家の強要ではなく徳川家康の決断理由による政治粛清だったという説が有力です。武田の脅威が身近に迫る中、岡崎城に拠る信康・築山殿ら岡崎派と、浜松城の家康率いる本隊との間には、対武田戦略や家中統制を巡って修復不能な亀裂が生じていました。

万一手綱の緩んだ信康が暴走すれば、織田との同盟崩壊はおろか徳川家そのものの滅亡を招きかねません。家康は苦渋の末、同盟の維持と家中分裂の危機を回避するため、築山殿を遠江国佐鳴湖畔で殺害させ、二俣城に幽閉した信康を自刃に追い込んだのです。徳姫の訴状は、家康が決断を下すための大義名分として利用された側面が浮き彫りになっています。

井上 凛

井上 凛

シニアコンテンツプロデューサー

心身ともに健康で持続可能なライフスタイルをテーマに、最新のウェルネストレンドを発信中。

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