二・二六事件はなぜ起きた?青年将校の決起と昭和天皇の激怒の全真相
教科書には残りにくい青年将校が決起した真の理由には、当時の日本が直面していた極度の格差と社会不信がありました。昭和初期、日本は1929年の世界恐慌の余波に加え、1934年の東北地方を中心とした大凶作によって深刻な打撃を受けていました。農村では飢えによって欠食児童があふれ、年端もいかない娘たちが身売りに出される惨状が日常化していたのです。
現場で直接兵卒たちと寝食を共にしていた青年将校らは、多くが地方出身である部下の家族が直面する悲痛な叫びを直接耳にしていました。その一方で、東京の政友会や民政党といった既存政党は不毛な政争に明け暮れ、三井・三菱などの巨大財閥と癒着して私腹を肥やしているように見えました。「この国を蝕む悪徳政治家や特権階級(君側の奸)を排除し、天皇が直接政治を行う清廉な政治(天皇親政)を実現しなければ、日本は破滅する」という切迫した使命感が彼らを過激な直接行動へ駆り立てたのです。
さらに事態を加速させたのが、陸軍内部で泥沼化していた権力闘争、すなわち「皇道派と統制派の違い」でした。
皇道派(荒木貞夫、真崎甚三郎らが中心)は、精神主義を最重要視し、ソ連を主敵と見定めて武力蜂起による一挙の国家改造(昭和維新)を肯定する急進派でした。対する統制派(永田鉄山、東條英機らが中心)は、近代兵器と総力戦体制の構築を重視し、既存の体制や財閥と連携しながら合法的・計画的に国家総動員体制を進めようとするエリート官僚肌の派閥です。
1935年、皇道派の相沢三郎中佐が統制派のリーダーである永田鉄山軍務局長を白昼堂々刺殺する「相沢事件」が発生。陸軍省は皇道派の牙城であった近衛歩兵第3連隊や歩兵第1連隊を含む第1師団に対し、満州(現在の中国東北部)への出動命令を下します。これによって「本土を離れれば国内改革の機会は永遠に失われる」と焦燥に駆られた青年将校たちが、渡満直前のタイミングでクーデターへ踏み切ることになりました。