藤堂高吉はなぜ本家を継げなかったか?高虎との確執と名張移封の真相
インターネット上の掲示板やSNSでは、「藤堂高虎は実子が可愛くなり、養子の高吉を冷酷に切り捨てて名張へ追放した」「高虎と高吉は晩年、骨肉の憎悪を抱き合っていた」という言説がまことしやかに語られがちです。しかし、歴史学の客観的検証においてこの言説は明確な誤解です。
実際には、藤堂高虎との関係は最期まで極めて深く、相互の敬愛に満ちていました。高虎の遺言録や書状類を分析すると、高虎は高吉の才器を高く評価し続け、自らが亡くなった後に高次と高吉が争うことを誰よりも懸念していました。高虎が高吉を大名として独立させようと徳川秀忠に直訴したのも、高吉の領地を本藩から切り離すことで、兄弟間の骨肉の争いを未然に防ぎ、高吉の尊厳を守るための親心でした。
また、寛永7年に高虎が江戸で危篤に陥った際、高吉は今治から急ぎ江戸へ駆けつけ、病床の高虎の看病に当たっています。高虎もまた高吉の手を取り、過去の軍功を労いながら遺品を分け与えたことが記録されています。真に対立していたのは高虎と高吉ではなく、藤堂高次との確執でした。高次は、家臣団に絶大なカリスマ性を持つ義兄・高吉の存在を自身の権威に対する直接的な脅威とみなし、高虎という巨大な抑止力が失われた瞬間、一気に高吉の排除・名張移封へと舵を切ったのです。
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