佐賀の巨城・名護屋城の謎に迫る!名古屋城との違いと秀吉が築いた真相
肥前名護屋城が築かれた直接の契機は、豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)です。天正18年(1590年)の小田原攻めによって天下統一を成し遂げた秀吉は、その視線を即座に海外へと向けました。当時の航海技術において、日本本土から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へ渡る最短の航路を確保できる要衝が、東松浦半島の突端に位置する名護屋でした。
天正19年(1591年)10月、秀吉の命を受けた黒田官兵衛(孝高)が縄張りを担当し、九州の大名たちを中心に驚異的な突貫工事が開始されました。九州の大名だけでなく加藤清正、寺沢広高らも参画し、山を削り谷を埋め、わずか約8か月という信じがたい短期間で巨大城郭を完成させました。イエズス会宣教師ルイス・フロイスもその記録『日本史』において、「何もない寒村に、短期間で壮麗な天守や数千軒の武家屋敷が立ち並ぶ巨大都市が出現した」とその異様な変貌ぶりを驚きをもって記述しています。
城郭の中央には五層七階とも伝わる壮麗な天守がそびえ立ち、金箔瓦が葺かれていました。そして城の周囲半径約3km圏内には、徳川家康、前田利家、伊達政宗をはじめとする全国の大名たちが陣屋を構え、駐留した兵力は16万人、商業者等を含めると20万人以上が集住したと推定されています。
しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が伏見城で病没すると、事態は急転直下します。出兵していた日本軍は朝鮮半島から一斉に撤退し、名護屋城はその存在意義を完全に喪失しました。関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれると、この要塞が反乱勢力の拠点となることを恐れた幕府の命により、唐津藩主となった寺沢広高らによって徹底的な破城(はじょう)が行われました。建物は解体され、石垣の要所は崩され、建築資材や石材は新設された唐津城などへ転用されて、わずか数年で広大な城郭は深い草木の中に埋もれていったのです。