山が消えた日…二又トンネル爆発事故の真相と死者数・跡地の現在
なぜ安全に処理されるはずの火薬が、山を吹き飛ばすほどの大爆発に至ったのか。その決定的な原因は、米軍による稚拙な焼却手順と火薬特性に対する過小評価にありました。
1945年11月12日午後、米軍の作業隊は坑内に積まれた火薬の一部に導火線を取り付け、「少量ずつ燃焼させて処分する」という計画のもと点火を行いました。米軍側は火薬を密閉空間ではなく開放空間のように燃やせると判断していましたが、トンネルという閉鎖空間に積み上げられた火薬は、一部が燃焼した際の高熱とガスによって急激に内圧を上昇させます。
点火からまもなく、火薬は緩やかな燃焼から一気に爆轟(ばくごう)へと転移。トンネル全体に熱と圧力が充満し、約530トンの火薬が一斉に起爆する破局的な大爆発を誘発しました。
当時、現場周辺の住民には十分な退避勧告や危険性の周知がなされておらず、「米軍が何か作業をしているらしい」と遠巻きに見物していた人々も多くいたことが、被害を決定的に拡大させる要因となりました。
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