藤子F不二雄と藤子Aの違いとは?作風比較とコンビ解消の真相
1987年末、二人が「藤子不二雄」のコンビ解消を発表した際、週刊誌や世間では「ドラえもんの大ヒットによる印税格差で揉めたのではないか」「長年の確執による喧嘩別れではないか」といった不仲説がセンセーショナルに書き立てられました。しかし、報道各社の取材証言や関係者の手記を丹念に検証すると、その実情は不仲どころか「互いへの深い愛情と家族を守るための決断」であったことがはっきりと分かります。
コンビ解消に踏み切った直接の契機は、1986年に藤本弘が胃がんの手術を受けたことでした。大病を患ったことで自らの余命や「終活」を強く意識したF氏は、安孫子氏に対して長年のパートナーシップに区切りをつける相談を持ちかけます。その根底にあった最大の課題が、著作権と印税管理の独立問題でした。
当時、二人が共同設立した「藤子スタジオ」では、どちらが描いた作品であっても印税や版権収入を会社としてプールし、完全に折半(50%ずつ分配)するシステムを採用していました。コンビ存続中は美しく機能していたこの制度も、どちらか一方が他界した場合、残された遺族の間で莫大な著作権分配をめぐる法的トラブルへと発展しかねません。将来的な火種を残さないため、F氏側の個人事務所「藤子・F・不二雄プロ」と、Ⓐ氏側の「藤子スタジオ」に会社組織を円満に分割したのです。
さらに重要なのは、作家としての矜持でした。ブラックユーモアや大人向け作品へと作風を深めていたⒶ氏は、F氏の描く『ドラえもん』の清廉な世界観に配慮し、「自分のダークな作品がドラえもんのイメージを傷つけてはいけない」と常々感じていました。コンビを解消し、藤子・F・不二雄(当初は藤子不二雄Ⓕ)と藤子不二雄Ⓐに名前を分けることで、両者が誰にも気兼ねなく自らの創作に没頭できる環境を整えたのです。
1996年にF氏が62歳の若さで逝去した際、葬儀で葬儀委員長を務めた安孫子氏は、涙ながらにこう語りました。
「彼は僕の少年時代の夢そのものだった。藤本くんがいたからこそ、僕は漫画家になれた」
不仲による解散という俗説は、長年培われた二人の崇高な信頼関係の前に完全に打ち消されています。