浅田真央の母・浅田匡子の壮絶な生い立ちと48歳早逝の真相
真央さんがバンクーバー五輪で銀メダルを獲得し、次なるソチ五輪を目指してフォーム改造に取り組んでいた2011年、匡子さんの身体は静かに限界を迎えていました。病名は肝硬変。長年にわたる過酷な生活リズム、極度のプレッシャー、そして娘たちを支え続ける中で蓄積した疲労が、匡子さんの肝臓を蝕んでいました。
2011年夏頃から病状は急速に悪化し、名古屋市内の病院に入退院を繰り返す日々が続きます。一時は生体肝移植も検討されましたが、適合条件やタイミングの壁もあり、匡子さんの容態は予断を許さない状況へと陥っていきました。
2011年GPファイナル緊急帰国の舞台裏と真央の再生
2011年12月、真央さんはカナダ・ケベックで開催されるグランプリ(GP)ファイナルに出場するため現地に滞在していました。しかし開幕直前、日本から「母の容態が急変し、極めて危険な状態にある」との緊急連絡が入ります。真央さんは大会を急遽欠場し、成田空港を経由して名古屋の病院へと急ぎました。
しかし祈りは届かず、真央さんが空の上にいた2011年12月9日午前、浅田匡子さんは48歳という若さで息を引き取りました。病院に駆けつけた真央さんは冷たくなった母と対面し、言葉にならない悲痛な涙を流したと報じられています。
最愛の母を失った絶望から、一時はスケート靴を履くことすらできなくなった真央さん。しかし、「どんなときも前を向いて滑り続けなさい」という母の遺志を胸に氷上へと復帰しました。2014年ソチ五輪のフリースケーティングで世界中の涙を誘った伝説の演技「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番」の完璧な滑りと天を見上げたフィニッシュポーズは、天国の母・匡子さんへと捧げられた最高の鎮魂歌でした。
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