東山魁夷の絵画が心を打つ理由とは?名作の秘密と美術館最新情報
東山魁夷は決して順風満帆なエリートコースを駆け上がったわけではありません。その名声の裏には、40代手前まで続いた長い下積みと、筆舌に尽くしがたい人生の試練がありました。
1908年に横浜で生まれた魁夷は、神戸で少年期を過ごし、父親の反対を押し切って東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科へ進学。同期には山本丘人や橋本明治らがおり、早くから才能を認められていました。しかし、1930年代にドイツ留学から帰国した後は、日展(当時は帝展・新文展)で落選や低評価が続き、画壇での評価はなかなか定まりませんでした。
転機となったのは第二次世界大戦末期の1945年です。37歳で召集され、熊本で過酷な対戦車爆雷訓練を受ける中で死を覚悟した魁夷は、熊本城の天守閣跡から阿蘇の山並みを眺めた瞬間、自然の美しさに魂を揺さぶられます。この「命の極限で目覚めた風景への愛」が、後の画風を決定づけました。
復員後の1947年、39歳のときに日展へ出品した『残照』が特選を受賞。夕暮れの千葉・鹿野山から連なる山並みを深い藍と黄昏の光で描いた本作によって、魁夷は一躍脚光を浴びることになります。遅咲きの俊英として世に出た魁夷は、皇居宮殿の壁画『朝明けの潮』の制作や、日中国交正常化の契機となった唐招提寺御影堂の障壁画制作など、昭和の国家的大プロジェクトを次々と手掛け、国民的画家としての地位を不動のものにしました。
特に1971年から約10年の歳月をかけて完成させた唐招提寺の障壁画(『山雲』『濤声』『揚州薫風』『黄山暁雲』など全68面)は、鑑真和上に捧げる渾身の集大成として知られ、水墨と色彩の極致を示す記念碑的業績として今も語り継がれています。
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