県名と県庁所在地が違う県は何個?歴史の真相と覚え方を徹底解説
全国でなぜこれほど名前の食い違いが発生したのか、その県名と県庁所在地が違う理由を紐解く鍵は、1871年(明治4年)に断行された廃藩置県と明治政府の経緯にあります。
明治維新直後、新政府は旧藩の枠組みをそのまま引き継ぐ形で300以上の「府・県」を設置しました。しかしこれでは財政的にも行政的にも非効率極まりないため、同年年末の第1次府県統合、さらに1876年(明治9年)の第2次府県統合を経て、現在の47都道府県に近い規模へと一気に集約が進められます。この激動のプロセスの中で、名前の不一致を生み出した「3つの決定的な法則」が存在しました。
法則1:開港場の国際信用を優先した命名(神奈川県・兵庫県)
最も明確な理由を持つのが、神奈川県横浜市の歴史と兵庫県神戸市の違いです。1858年に江戸幕府が結んだ日米修好通商条約をはじめとする不平等条約では、外国人に開く港として「神奈川」および「兵庫」の2地点が指定されていました。
しかし、東海道の宿場町として賑わっていた神奈川宿や、古くからの巨大港町であった兵庫津(大輪田泊)に外国人居留地を作ると、排外主義を掲げる攘夷派武士と外国人との衝突が起きるリスクが極めて高かったのです。そこで幕府は、神奈川宿の対岸にある静かな半農半漁の寒村だった「横浜村」、そして兵庫津の東隣に位置する農村「神戸村」を開発し、そこを「神奈川の一部」「兵庫の一部」と強弁して開港場に仕立て上げました。
結果として、新しく開拓された横浜や神戸は国際貿易港として急速に巨大都市へと成長します。一方で明治政府としては、海外諸国に対して「条約で定めた神奈川県」「兵庫県」という法的枠組みを維持する必要がありました。この外交上の条約名と実態都市のズレこそが、神奈川と兵庫における県名不一致の真相です。
法則2:旧藩主の影響力を絶つ「郡名」の採用(愛知・三重・滋賀・宮城など)
2つ目の要因は、明治政府の内政上の力学です。何百年も続いた江戸時代の封建支配を打破し、中央集権国家を築くにあたり、旧大名の城下町名(名古屋、仙台、水戸、高松など)をそのまま県名にしてしまうと、地域住民に「依然として旧藩主の領国である」という意識が残り続けてしまいます。
そこで明治政府は、県庁を置いた現地の広域行政区画である「郡名」を県名に採用する方針を採りました。愛知県名古屋市の由来を辿ると、尾張徳川家の居城であった名古屋城の所在地が「愛知郡(あゆちぐん)」であったため、愛知県と命名された経緯が記録されています。宮城県仙台市(宮城郡)、茨城県水戸市(茨城郡)、滋賀県大津市(滋賀郡)も、すべてこの「脱・城下町(旧藩主の影響排除)」を意図した郡名採用の典型例です。
法則3:県庁舎の移転と統廃合の力学(栃木・群馬・石川)
3つ目の法則は、激しい地域間競争と県庁舎の物理的な移転です。栃木県は当初、県南部の栃木町(現在の栃木市)に県庁が置かれていたため「栃木県」と命名されました。しかしその後、宇都宮県との合併に伴い、地理的中心であり交通の要衝でもあった宇都宮城下へ県庁が移転します。その際、旧宇都宮藩の影響を警戒したことや政治的妥協により、庁舎が宇都宮市に移った後も「栃木県」という名称だけが残ることとなりました。
群馬県も同様に、高崎(群馬郡高崎町)に県庁があったことから群馬県と名付けられましたが、前橋との間で激しい県庁争奪戦が勃発し、最終的に前橋へ移転したものの県名が維持されました。石川県に至っては、金沢から石川郡美川町(現在の白山市)に一度県庁を移して「石川県」と改称したものの、わずか1年余りで利便性の高い金沢へ庁舎が戻されるという迷走の歴史を辿っています。