19世紀末に3B政策を展開した国はどこ?世界大戦の火種となったドイツ帝国の真相
この野心的な構想は、決してドイツ建国当初からの既定路線ではありませんでした。統一の立役者である鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクが敷いた外交方針は、あくまで「現状維持」と「フランスの孤立化」を至上命題とする、極めて緻密で慎重な勢力均衡体制(ビスマルク体制)だったからです。
ビスマルクは、宿敵フランスのリベンジを防ぐため、ロシアとの友好関係を保ち(再保障条約)、オーストリアやイタリアと三国同盟を結び、海洋帝国イギリスの利害を刺激しないよう、過度な海外植民地獲得には極めて抑制的でした。ヨーロッパ大陸のバランサーとして君臨し、全方位に配慮した複雑な同盟網を維持していたのです。
しかし、1888年に29歳の若さで即位した皇帝ヴィルヘルム2世の登場によって、歯車は狂い始めます。過剰な自己顕示欲と軍事力への絶対的信奉を抱く新皇帝は、老練な宰相の慎重策を「臆病」と断じ、1890年にビスマルクを罷免。「世界政策(Weltpolitik)」や「日光の当たる場所の獲得」を声高に叫び、強引な対外膨張政策へと舵を切りました。
ヴィルヘルム2世が真っ先に目をつけたのが、「瀕死の重病人」と揶揄され列強の蚕食に怯えていたオスマン帝国(トルコ)でした。ドイツはオスマン帝国に多額の財政借款を与え、プロイセン流の軍事顧問団を派遣して親独派を育成。1898年の皇帝自らによるオリエント親善訪問を経て、1899年および1903年にバグダード鉄道敷設権の獲得に成功したのです。これが、既存の国際秩序を根底から覆す引き金となりました。
タグ:
https://starterpackmemes.com/japan-spotlight/5888022/