奈良の大仏を作った人は誰か?聖武天皇と影の立役者たちが遺した真実
ネット上の言説や一般的なイメージの中には、歴史的事実と異なる思い込みが少なからず存在します。現場の一次史料を精査すると、従来のイメージを覆す実態が見えてきます。
誤解1:民衆を奴隷のようにこき使った強制労働だったのか?
「権力者が民衆を無理やり徴用し、過酷な労働で使い潰した」というイメージを持たれがちですが、実態は大きく異なります。平城京周辺の木簡や正倉院文書の分析によると、現場で働いた人々には一定の食糧(米や塩)が配給され、技術者や専門工匠には賃金(布など)が支給されていました。強制的な労役(庸・調)だけでなく、行基のカリスマ的な呼びかけに応じた自発的なボランティアや有償労働者が多数混在していたことが判明しています。現代の視点で見れば、大規模な公共事業によって雇用と配給を生み出す経済対策の側面も持ち合わせていました。
誤解2:奈良の大仏はいつ完成したのか?752年ですべて完成していたわけではない
教科書には「752年に大仏が完成した」と書かれています。確かに752年(天平勝宝4年)4月9日に盛大な「開眼供養会」が執り行われ、インド出身の僧・菩提僊那が筆を執って大仏に目を描き入れました。しかし、この時点では大仏殿の建物自体はまだ完成しておらず、雨ざらしの野天に巨大仏が立っている状態でした。さらに表面の金メッキ作業や背後の巨大な光背の製作はその後も続けられ、大仏殿が整ったのは758年、光背が完成したのは771年のことです。発願から完全な姿になるまでには、約30年近い歳月を要しています。
誤解3:今見ている大仏は「聖武天皇の時代」そのままの姿なのか?
現在、私たちが東大寺で拝観している大仏は、奈良時代の姿そのものではありません。東大寺は平安末期の平重衡による南都焼討(1180年)と、戦国時代の三好・松永の戦い(1567年)という2度の壊滅的な兵火に見舞われました。現在の大仏の頭部は江戸時代(1692年の開眼供養)に公慶上人らの尽力で再興されたものであり、胸や腕の一部は鎌倉時代の補修です。奈良時代の創建当初のパーツが奇跡的に残っているのは、台座の蓮弁(ハスの花びら)や腹部、指先などの一部に限られています。幾重もの時代の職人たちが祈りをつなぎ止めてきたハイブリッドな巨像なのです。