ダライ・ラマ14世の現在と後継者問題|転生制度と中国対立の深層
ダライ・ラマ14世と中国の対立の原点を理解するには、1950年代の歴史を振り返る必要があります。1950年、建国直後の中国人民解放軍がチベット東部に侵攻。当時わずか15歳だったダライ・ラマ14世は、国家の危機に直面して政治の全権を掌握せざるを得なくなりました。翌1951年、チベット代表団は北京で武力威嚇のもと「十七水頭協定(チベット平和解放協定)」に調印させられ、チベットは中国の主権下に組み込まれることになります。
当初、ダライ・ラマ14世は毛沢東ら共産党幹部との対話を通じて共存を模索しました。しかし、中国軍による寺院の破壊、農地改革という名の伝統社会の解体、僧侶への弾圧が激化。1959年3月、首都ラサでチベット市民による大規模な蜂起(チベット動乱)が発生します。中国軍が宮殿に砲撃を加える寸前、ダライ・ラマ14世は兵士に変装し、側近とともに漆黒の夜のラサを脱出。険しいヒマラヤ山脈を徒歩と馬で越え、インドへと命からがら亡命したのです。
インド政府のネルー首相(当時)の庇護を受け、北インドのダラムサラにチベット亡命政府を樹立して以来、彼は祖国の土地を一度も踏むことができていません。彼が世界的に高く評価される最大の理由は、祖国を奪われ、数十万人とも言われる同胞が命を落とす過酷な状況下でも、一切の武力闘争を拒否した点にあります。
中国からの完全な独立を叫ぶ若手チベット人たちの急進派を説得し、中国の主権下にとどまりながらも高度な自治と文化・宗教の保護を求める「中道のアプローチ」を提唱し続けました。この非暴力の精神と対話への信念が認められ、1989年にノーベル平和賞が授与されたのです。中国側が彼を「祖国分裂を企む危険分子」と激しく非難し続ける一方で、世界が「平和の使徒」として称賛する構造は、この歴史的経緯に根ざしています。