勝率9割6分の最強力士・雷電為右衛門が横綱になれなかった歴史の真相

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相撲ファンの間で長年議論され続けてきた核心の謎、それが「これほどの成績を残しながら、なぜ雷電は大関止まりで、横綱になれなかったのか」という点です。現行の大相撲制度を知る現代人からすれば、勝率9割6分を超え、28回も優勝相当成績を収めた力士が横綱に昇進しないなど到底考えられません。

しかし、当時の相撲界を取り巻く歴史的背景と制度を紐解くと、そこには「実力以外の3つの明確な理由」が存在していました。

理由1:江戸時代における「横綱」は地位ではなく名誉称号だった

まず押さえるべき大前提は、江戸時代において力士の最高位はあくまで「大関」だったという事実です。現代のように「横綱」が番付上の独立した最高峰の地位として制度化されたのは明治42年(1909年)のことであり、雷電が生きた寛政〜文化年間(1790年代〜1810年代)において、横綱とは「大関の中で特に品格と実力を認められた力士にのみ許された、土俵入りの免許(名誉称号)」に過ぎませんでした。

つまり、雷電は大関に27場所(約17年間)君臨し続けた時点で、当時の力士として最高峰の地位にすでに到達していたのです。

理由2:所属大名「雲州松江藩」と免許権を持つ「吉田司家」の政治的確執

横綱免許の授与権を掌握していたのは、肥後熊本藩・細川家のお抱えであった相撲司家「吉田司家」でした。一方で、雷電は出雲国松江藩(現在の島根県松江市)の藩主であり、稀代の茶人としても高名な松平不昧公(治郷)に仕える雲州松江藩お抱え力士でした。

当時、吉田司家から横綱免許を受けるには、抱え主である大名家からの推挙や申請、そして多額の費用と政治的交渉が必要でした。雷電の前に横綱土俵入り免許を受けた谷風梶之助(仙台藩抱え)や小野川喜三郎(久留米藩抱え)の免許授与には、吉田司家側が相撲界における権威を確立させたいという政治的意図が強く働いていました。

ところが、雲州松江藩と熊本藩細川家、あるいは吉田司家との間には微妙な距離感があり、松平不昧公が愛弟子である雷電のために頭を下げてまで免許を申請することを良しとしなかった、あるいは免許などなくとも雷電の実力は天下無双であり、権威付けの必要すら感じていなかったという見解が相撲史研究者の間では極めて有力視されています。

理由3:対抗馬となる「好敵手(ライバル)」の不在

寛政の相撲黄金期を牽引した谷風が寛政7年(1795年)にインフルエンザ(当時は風邪の流行)で急逝し、寛政9年(1797年)には小野川も引退します。その後、土俵には雷電と互角に渡り合えるライバルが一人も存在しなくなってしまいました。

横綱免許とは本来、卓越した実力者同士が競い合う舞台において、格式ある儀式として付与される性格を帯びていました。雷電一人だけが突出して勝ち続ける独走状態では、興行としてのバランスを欠き、新たな横綱免許を大々的に発行する機運そのものが角界全体で停滞してしまったのです。

「無類力士手形開向」に見る雷電だけの終身名誉

横綱免許こそ手にしなかった雷電ですが、相撲会所(現・日本相撲協会)は彼の現役引退後、前代未聞の特別な栄誉を与えています。それが文政7年(1824年)に認められた「無類力士手形開向(むるいりきしてがたかいこう)」です。

これは「雷電の実力は他に類を見ない天下無双のものであり、特別の待遇を終身保障する」という相撲会所公認の手形免許でした。東京・深川の富岡八幡宮にある「歴代横綱碑」の裏手には、歴代横綱の並びとは別に、あえて「無類力士」として雷電為右衛門の名が堂々と刻まれています。当時の相撲界にとっても、雷電は「横綱という枠組みにすら収まらない至高の存在」として敬意を払われていた証左といえます。

池田 達也

池田 達也

マネー&キャリアエディター

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。

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