天草四郎のさらし首はどこへ?出島獄門と母の首実検の真相に迫る
1638年(寛永15年)2月28日、約3か月におよぶ籠城戦の舞台となった原城跡は、老中・松平信綱率いる12万を超える幕府軍の総攻撃によって地獄絵図と化しました。城内に立てこもった約3万7000人の一揆勢は、兵糧が尽き、草木や海草を口にしながらも十字架を掲げて抗戦を続けましたが、圧倒的な兵力差の前に壊滅します。
反乱軍の総大将であった益田四郎時貞(洗礼名:ジェロニモ、フランシスコとも)の最期は壮絶を極めました。肥後熊本藩主・細川忠利の家臣である陣佐左衛門の手によって本丸の一角で討ち取られたと伝えられています。四郎は享年16歳(数え年、満17歳説もあり)。華麗な羽織を身にまとい、十字架を胸に抱いて指揮を執り続けた少年の命は、城内の民衆諸共、炎と刃の中に消え去りました。
幕府軍は城内にいた者を幼子や女性に至るまで徹底的に殲滅。城内に残された遺体の山から、幕府は乱の主謀者である四郎の首を探し出す作業に追われることになります。
タグ:
https://aitraining.bnsf.com/valmvpso/7116694/