江戸の銭湯を揺るがした湯女の実態!吉原遊女との違いと禁止令の真相
寛永年間(1624〜1644年)の最盛期には、江戸市中に200軒以上の湯女風呂が存在し、1軒あたり20人から30人、多い店舗では数十人規模の湯女を抱えていました。江戸全体で数千人もの湯女が働いていた計算になります。
この状況は、幕府にとって看過できない2つの深刻な問題を引き起こしました。
第1に、武士階級の風紀紊乱と経済的破綻です。旗本や御家人が湯女風呂に入り浸り、家産を傾けたり、客同士の刃傷沙汰を起こす事態が頻発しました。第2に、幕府公認として冥加金(税金)を納めていた吉原遊廓からの激しい反発と経営危機です。「高い税金を払っている公認の吉原が閑古鳥で、無許可の町湯が繁盛するのは不公正である」という訴状が相次ぎました。
幕府は幾度となく規制令を出しましたが、看板を掛け替えて営業を続ける「イタチごっこ」が続きました。決定打となったのが、明暦3年(1657年)の「湯女禁止令」です。幕府は主要な湯女風呂200軒に対し、各店から筆頭格の湯女を1名ずつ、計200人を吉原(新吉原)へ強制移住させる断行を行いました。同時に風呂屋での女性雇用を厳禁とし、これに違反した店舗は取り潰しという過酷な処分を下したことで、江戸の湯女風呂は一夜にして壊滅へ追い込まれました。
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